東日本大震災の日

 

 

  • 東日本大震災から6年

 

この日が来るとまるで昨日の事のように誰もがあの日の事を思い出すと思います。

6年前の今頃、時は巻き戻せないけど、早く安全な場所に避難して、、、なんて、もし誰かが過去に戻って言えたとしても、誰も信じてくれないだろう、誰もあそこまでの自然災害が起こるなんて想像できなかった。

私はあの頃保険の営業をしていて、お客様の家について少したったころでした。お客様はジャズ音楽をかけながら、コーヒーをおとしてくれていて、日差しも温かく優雅なお昼過ぎといった感じでした。

なんとなく座っているのにゆらゆら、頭が揺れている感覚。するとお客さまも立ちくらみかしら、、というので私も立ってみました。すぐに地震だと分かり二人でダイニングテーブルの下にもぐり、あまりの体感したことのない大きな揺れに直感的にどこかでもっと大きく揺れている、私もこのまま家ごと崩れて生き埋めになるかもしれない、、、と長時間いられる姿勢に体制を変えてテーブルの脚を掴みながら頭を覆いました。

怖い怖い!!とお客様と話しながら、部屋の中は家具が揺れる音と何だかミスマッチなジャズの音楽が励ましてくれているかのように流れます。

まだ?まだ?いつまで続くのだろう、、、

揺れていた家具たちが少しづつ静まり、恐怖に少しの間テーブルから出れませんでした。

二人でいすに座り、家がつぶれなくて良かったと胸に手を当てながらテレビをつけるお客様。気持ちを慌てずにいさせてくれたジャズ音楽はいつの間に消され、テレビでは慌ただしい最新情報を伝えようとキャスターが必至に状況を伝えている。

それは津波のニュース。

揺れがおさまり、わりとすぐにつけたテレビ。震源は遠いのに、もう津波なんて言葉で避難してくださいと呼び掛けている。

お客様にご家族は大丈夫?ときかれ、都内に住む姉、千葉のわりと海寄りに住む父、秋田のおばあちゃんの事が頭によぎりました。

一番危険度の高い父にすぐに電話をかけましたが込み合っていて通じない。。。結局通じたのは4時過ぎ。状況が分からない中津波の被害がテレビでどんどん流れ、千葉は大丈夫だろう、、、と思いながらも、無事が確認できたときは涙がでました。

会社からもすぐに緊急の連絡があり、無事を伝えた後に帰社をすると、、、

仕事をしながら何度も何度も携帯を見ている先輩。南相馬市が地元で、弟だけ連絡が取れずに行方が分からない。。。南相馬の被害だけが次々に伝えられている。。。

部署全員が心配をする中、結局連絡は取れないまま帰宅。次の朝先輩から連絡がつき無事だったことをきき、本当にみんなで良かった―!!と肩をおろしました。

私は仕事を少し早めに切り上げ息子を保育園へ迎えに。まだ建設されてから1年もたっていない木造平屋の保育園。昨年であれば全面ガラス張りのビル3階にある保育園に預けていたので不安でたまらなかったと思いますが、安心していたので電話もせずにお迎えへ。保育園の先生はお母さん大丈夫でしたか~!!?と逆に心配してくれていました。園庭で遊んでいる最中、息子が1番に揺れに気付き、園庭中央の山の上でみんなで揺れがおさまるのを待ったそうです。

お迎えでは子供に会えた喜びで泣くお母さんもいました。

帰宅すると茶ダンスの引き出しが全てあいていました。。

その後も次々流れる最新情報。現実とは思えない映像に日に日に悲しみは増えていきました。

たまたまヤフオク出品で落札された洋服、住所は津波の被害にあった場所。

思わず地震の被害について聞いたところ、流されてしまい服もないとのこと、送料とか代金なんて勿論いらない事を伝え、足りないものを聞き周りの人にも声をかけて継続的に送る事にしました。

 

 

あの日の事、あの災害について、

 

 

1週間前のたわいない出来事を鮮明に思い出せないのに、きっと多くの人があの日の出来事を覚えている。

たわいない忘れてしまうような時間がどれだけ幸せな、平和な時間なのかを思い知らせてくれるように、今日はあの日無事だった人や、テレビで悲しみを伝えた人たちの今後の幸せを多くの人が願う。

忘れてはいけない、、、より、、、忘れられない、、、

平和を願う日。

 

 

 

ご冥福をお祈りいたします。。。

 

 

 

 

 

 

 

 



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